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106.神田伯山と一龍斎貞山

<芦州> 当時の大師匠のあだ名に殿様伯鶴、親分伯山、鬼助貞山っていうのがありましたよ。伯鶴は何もしない、えばってばかりだから殿様伯鶴。次郎長伯山だから、親分伯山、六代目一龍斎貞山この人が一番銭のことに細かくてうるさいから、鬼助。誰だったか噺家さんが、三代目伯山さんに、スケていただけないでしょうかって頼んだら、「ああいいよ」。伯山さんが出りゃ一杯ですよ。終わってワリをもって挨拶に行ったら、c0121316_15494810.jpg伯山さんが「そうかい商売だからこれは頂いとくよ。ぽーんと神棚に載せて懐からお金を出して、「お前にまだ祝いしてなかったな。少ねえけど」持ってきたワリよりお金が多い。ありがたいな講談の先生わって。次に頼んだのが、貞山さん。貞山さんに頼んだら「少ねえじゃねえか、おれが出たのにワリが少ないじゃねえか」。だから、その時同じ講釈師であっても、さすがに次郎長をやるだけはある、伯山さんは、さすがにあれだなって。この話は桃川燕雄さんから聞いている。桃川燕雄という人は三代目伯山先生をえらく尊敬してる人だからね、伯鱗{註:二代目木偶坊伯鱗}さんに、この事を聞いたら、河久保金太郎{註:桃川燕雄の本名}が言うのが本当だよ。だけと俺の師匠はちょっと見栄っぱりだから、弟子が誰もいない内緒のところで金を貸してくれないかといったら、馬鹿野郎、みんなのいる前で言え。そうすんと貸すんだよ。内緒で誰もいない所でやろうとするとダメだという。直系の木偶坊伯鱗さんが言ってた。
<長谷川>琴柳さんもよく借りているみたいですが先生から・・・
<芦州> 云わない絶対に云わない。えらいその点はなあ<笑い>この人は土を食ってでも絶対に師匠に借金しない、え・・?俺がお前に借りたことがある<笑い>ひどね・・・<大笑い>
(余滴)
三代目神田伯山
本名岸田福松
明治五年七月十五日1872~昭和七年一月三十日1932(享年60)
東京京橋の花屋に生まれる。
明治十六年二代目神田伯山に入門神田松山、明治二十八年小伯山と改名し、真打昇進。明治三十七年三代目神田伯山襲名。二代目は神田松鯉へ改名。胃潰瘍のため死去。
明治末期から昭和初期まで、人気が沸騰、伯山の出演する寄席の周辺(八丁四方)の寄席は客を取られてしまうにで「八丁荒らし」の仇名があった。
最大の売り物の「清水次郎長伝」は、講釈師松廼家京伝の口伝、清水での調査、山本鉄眼の東海遊侠伝、生き残りの侠客からの聞き取り等を参考に、愛されるキャラクターを創作し、義理人情を盛り込み、独自のストーリーを、明治三十九年に完成させた。浪曲の広沢虎造の「清水次郎長伝」は弟子の神田ろ山が教えたもので、ろ山は破門された。
親分肌で、二十数名の弟子を持った。門下の初代神田山陽、初代神田ろ山、三代目神田伯治、五代目神田伯龍は四天王と呼ばれた。
<得意読物>
「小猿七之助」「祐天吉松」「野狐三次」「夕立勘五郎」

「演目も幅広く豊富であったが、客は本人の気持ちを無視して侠客物を望んだ。性格も日常生活も気前のいい江戸っ子で、それは登場人物にも反映されており、伯山の講談はみんな江戸っ子だといわれ、庶民的な芸風が大衆の支持を受けた」田邊孝治
by koganei-rosyu | 2007-11-28 09:27 | 前口上とプロフィール

105.大島伯鶴と一龍斎貞山(3)

<芦州>六代目貞山さんはウチの亡くなった師匠の仲人なんですよ。だからどっちかっていうと私にしてみれば六代目の方に近いんですよ。貞丈、貞鏡はもう使えねえから、「お前さんとこの小僧をやってくんな」。それで大掃除の手伝いに行きましたよ。ところがこの六代目貞山さんがね、御承知のとおりお金に細かいでしょ。それに輪をかけてこのオカミさんがしみったれときている<薄笑い>。 手弁当で行ってさ、すくなくとも風呂銭ぐらいはねえ、それも無え。大掃除に二回目言われたとき俺嫌だって言ったの。そしたらウチの師匠が呼びだしくって。「オマエさんとこの小僧は何だ!ね、首を即刻切りなさい」と。ね、ウチの師匠が「オマエ、なぜ行かなかった?」ジョウダンじゃねえ。師匠の前で啖呵(たんか)をきったの。オレは貞山の弟子じゃねえ!小金井芦州の弟子だ!!承服できねえ、直系がいるんだからそれにやらせりゃいいんだ。そんときから、もう、一龍齋とはあんまりね・・・<笑い>。ウチの師匠困っちゃて立場上、相手に逆らえないよ。落語協会の会長でもあるし、そいで六代目に謝ったんです。それを聞いていたのが、大島伯鶴で六代目と仲が悪いでしょ。伯鶴さんとこの番頭さんで、村上白水というマネージャーが「うちの親父が言ってたよ、桝井(六代目貞山)に逆らって、骨のある小僧じゃねえか。俺んとこで使ってやれ」。そう言われて伯鶴先生の鞄持ちを。其の時、軍馬の慰霊祭{註:太平洋戦争で、20万頭が犠牲になった靖国神社に「軍馬の像」がある}をどこそこの公会堂とかいうところでやりました。馬にちなんで伯鶴先生が「寛永三馬術」、木村友衛{註:浪曲師初代、日本浪曲協会初代会長}さんが「塩原太助」の青の別れ、先代円歌さん{註:二代目三遊亭円歌}が「馬のす」、それから、ゴリラのまねをやる漫才師と前座がワタシ、ところがワタシは二人か三人のところでしかやってないでしょ。あんな大勢、公会堂満員ですよ。そんなとこ初めて、前には陸軍の中将とか大将とか変な奴が一杯でしょう。あがちゃいましたよ。その時やったのが「海賊退治」笹野権三郎。
c0121316_12241272.jpg<長谷川>馬が出てきませんね。
<芦州> しょうがない、覚えてないから、三馬術なんてやったら張り倒されちゃうよ<笑い>。知ってはいても演りませんよ。そしたら、友衛さんが病気になっちゃって、そいで今の若衛{註:初代。高音の魅力と華麗な舞台で戦後の浪曲界を支えた}さんが代演に来ました。そしたら、伯鶴先生がこれから俺は「新喜楽」にいくから、お座敷に行くからお前残れ、伯鶴先生のあとに今の若衛さん、ピーピーいい声で若々しい塩原太助をやる。ところが、飛んじゃった。伯鶴さんすぐ降りてくるよ。ところが五十五分、すぐじゃないよ。てめえがいい気持ちんなっちゃって愛宕山をそっくり(全部)、「演りすぎたかな」。気の毒なのは若衛さんですよ、はじめのうちはいい声だから持つけど、[客がだれちゃった]。芸とはこんなにもまた違うものかなと思いましたよ。伯鶴という人は広沢虎造を喰ったからね。上野日活館でアトラクションで伯鶴さんの男の花道(名医と名優)と広沢虎造の次郎長、入りましたよ。ところが虎造さん喰われちゃった。えらいもんだ。伯鶴先生から見ればまだヒョッコで呼びつけですよ。「オイどうした」。虎造さんが先に出て、燃えてる盛りでよかったですよ。それにもまして「名医と名優」はよかった。私がまだ講釈師になっていないとき、十三歳の時だったからね。いいか悪いかわからないけど。周りの大人の人が伯鶴の[方]がいいなって声が、耳に入ってましたよ。
by koganei-rosyu | 2007-11-26 10:56 | 前口上とプロフィール

104.大島伯鶴と一龍斎貞山(2)

<芦州> 伯鶴先生の軍事物なんかもいいですよ。伯鶴先生の軍事物はえらい人が出てくるんですよ皆な。何とか師団の司令官が何某とか、何とか中将だとか。ところが、同じ軍事物でも、桃川若燕{註:二代目1873~1947}という先生のは、全然ちがうんですよ、あまり上の人が出てこない。同じ軍事ものでも、兵隊が出てくるんですよ。兵隊が活躍するんです。面白いのは、いよいよ出征の時、あの当時の牛鍋屋の女中さんたちが見送りに来て、万歳々と旗振って「誰々さん無事で帰ってくるのよ、凱旋して帰ってきたらうちの勘定払うのよ」<笑い>。そういうところが実におかしかったですよ。ところが、伯鶴先生にはそれがないんですよ。下の者でなく、上の髭のはえた第一旅団の某がどうとか。若燕さんは、同じ兵隊同士が塹壕の中で話し合うんです。国帰ったら嫁さんもらうとか、おれは植木屋だがお前は大工だな、自分の親父はどうだとか、とにかく兵隊同志の話が実に面白かった。乃木さん{註:乃木将軍・次頁}の当番をしていたというから、乃木神社のすぐそばにウチがあって、乃木さんを大変尊敬してた。ですから乃木将軍の若燕さんはうまかったですよ。ワタシは若燕さんは一ぺんだけしか聞いていないな、子供時分に浦安亭で。私がこの商売に入ったときにまもなく中気で倒れちゃって、師匠の使いで行ったことがあります。そのとき確か奥さんは浦安亭の娘さんでしたよ。c0121316_12165011.jpg
<長谷川>先生ちょっと戻りますけど、伯鶴先生はお座敷の方が多かったということですが、
<芦州> こういっちゃ変だけれど、それが要するに講釈場に力を入れず、上の人達は皆お座敷お座敷でやってたもんだから、その悪い影響がずーとついちゃったんですね。力を入れなかったから。結局戦後になって、パクッやられた時、あれが出来なくなっちゃた。先生達がもっと席に出てやってくれれば、こうまではならなかったすよ。それをいいもんと思うから次に出る一龍斎貞丈(五代目)とか一龍斎貞山(七代目)とか宝井馬琴(五代目)とか、やっぱりそれをまねて座敷専門にいっちゃった。ね、だから結局講談の席に力を入れなかったんですよ。力を入れたのは、お座敷からあまり声のかからない、邑井貞吉、神田松鯉だとか桃川若燕とか、講釈場専門でしたから。だからこういう人たちが一番努力したんですよ。
<長谷川>でも、大島伯鶴にしても若い時寄席で修業してるわけですよね。
<芦州> そうですよ。伯鶴さんはあまりうまくなかったそうですよ。あの人はドサ廻りが多かった。ああいう芸風になったのは、ドサから帰ってきてからと言いますよ。
<長谷川>楽屋の中で先生との接触は?
<芦州> ありません。雲の上の人みたいで口を聞くのも大変ですよ。おっかなかったですよ。番頭を通じてですよ。終わって御大が呼ぶんです。て芸名じゃないですよ、小僧ですよ。「オイ! 小僧」って。
(余滴)二代目大島伯鶴
本名 大島保利(やすとし)
明治十二年四月八日1879~昭和二十一年四月二日1946(享年67)  
初代松林伯鶴(大島伯鶴後に大島東玉)の長男で、十三歳のとき、旭堂南慶に預けられ、大島鶴堂を名乗る。明治二十八年に大島芝鶴、後に大島小伯鶴と改名。明治四十四年1911に二代目大島伯鶴を襲名。喉頭癌にて死去。
「極めて陽性な芸風で、従来の重々しい深刻な側面を避け、滑稽味を多く取り入れ、明るい賑やかな派手な演出方法で独自の芸境を確立した。そのため「面白い講談」として大衆の人気が高く、ラジオの放送回数もトップで、昭和十年代には、六代目一龍斎貞山と人気を二分していた」田邊孝治氏
<得意読物>
「寛永三馬術」「笹野名槍伝」「三家三勇士」「青龍刀権次」「仁礼半九郎」「井上巡査」「高野長英」
by koganei-rosyu | 2007-11-23 12:07 | 聞書き:芸人エピソード編

103.大島伯鶴と一龍斎貞山(1)

<長谷川>先生が、この世界に入られた頃(昭和15年)、講談の両横綱は、二代目大島伯鶴(写真次頁)と六代目一龍斎貞山(写真下)と思いますが・・
c0121316_1271523.jpgc0121316_1274324.jpg<芦州> その当時、NHKが正月になると元日に伯鶴さんの「愛宕山」{註:寛永三馬術}をやり、暮れの十四日は必ず六代目貞山が義士の討ち入りをやった。当時の寄席の常連は伯鶴先生を馬鹿にしているんですよ。大島伯鶴なんてチャラばかりいれて。ところが子供たちにもわかるような講談なんですよ。芸風からいってオモシロイしね、アタシは伯鶴先生が好きだったですよ。どちらかというと。確かに貞山先生の方はきれいだったですよ。簡潔でね、例えば「秋色桜」をやっても、たいがい「一人はそばやに行きまして、一人は・・・」そんなこと言わないでね、「一人は薬屋へ、一人はそば屋へ」それだけですよ。だから多くの見物が義士の引き上げを見てて、「・・・泣かざるもの一人もなし」の調子で、一言だけで情景が出てました。だからそういう点において一龍斎貞山という人はなるほどなあと思いました。でもねお客を取るという、なんて言いますかね、後ろを引いてお客を取るというところはいかないですね。六代目はきれいです。その場は実に。c0121316_9362739.jpg「大徳寺の焼香場」{註:太閤一代記の信長葬送の場面}にしても、あの人がやるととにかく長袴をこういうふにして、ともかく上品できれいだけどもお客のケツを引っ張ろうという芸ではない。芸で一番大事なのは品です。品を落としたんじゃ講談はなんにもならない。だけども品の良さ、うまさ、調子の良さ、これはもって生まれたその人本来のあれがありますけどもね。その逆に伯鶴先生は滑稽だらけですよ。だから義太夫は入れちゃう、落語の何かをぶちこんじゃう。なんでもあれェッというものが随分ありますよ。だから色もんなんか行ってて演ちゃうと落語が入っちゃうでんすよ。たとえば浮世床みたいなのが出てくんですよ。あの先生はだから面白かった。そのかわし、あの先生がやるものは必ず前座ものです。「三家三勇士」「元和三勇士」「寛永三馬術」三の字が続く、とか「笹野権三郎」とか、あれはみんな前座もんですよ。ただお相撲さんの「越の海勇蔵」の「寛政力士伝」伯鶴先生のは聞いていないです。エーそれに「高野長英」ね、高野長英だの、「青龍刀権次」だのそういうのはあの先生良かったですよ。まあ「青龍刀権次」などは前座もんじゃないけど。それから、青龍刀権次も出てくる、爆烈お玉の「明治女天一坊」-知らないだろうけど。それに「仁礼半九郎」などが、あの先生独特のものですね。
(余滴)
六代目一龍斎貞山
本名 桝井 長四郎(ますい ちょうしろう)
明治九年十一月1876~昭和二十年三月十日1945(享年69)
東京銀座袋物商の家で生まれた
明治二十年四代目一龍斎貞山に入門貞花を名乗る。師没後、五代目一龍斎貞山門へ移る。邑井操と伊藤痴遊の後見で明治三十年三代目一龍斎貞丈を襲名。明治四十年六代目一龍斎貞山を襲名。昭和二十年三月十日東京大空襲で隅田川で死去。晩年は中風のため専ら口上を勤める。
大正から昭和初期に三代目神田伯山、二代目大島伯鶴とともに、大いに売り出し、確乎たる地位を築いた。演目も多く、中でも「義士伝」はお家芸。東京講談組合頭取、講談落語協会会長を歴任。寄席も神田立花演芸場を経営。

「堂々たる風貌恰幅、流暢華麗で気品のある渋滞をしらぬ音声口調、簡潔な措辞で独特の美文調の名文句を歌いあげるような名調子が、余り講談を聞かない一般人にも歓迎されて、ラジオ放送の出演回数も常に一二を争うほどだった。」田邊孝治氏

鬼助と呼ばれた貞山に関しては、別のエピソードもある
古々今亭志ん生の披露目を上野の精養軒で行ったとき、集まった祝儀400円をそっくり、妻のりんに渡し、精養軒の勘定を全て一龍斎貞山が払った。賭博での資金力(落語家に金を貸していた)だけで落語協会を抑えているのではなく、親分肌の大きな器量もあったようだ。
(「志ん生一代」 結城昌治)
by koganei-rosyu | 2007-11-20 12:27 | 聞書き:芸人エピソード編

102.桃川燕雄の事(3)

<長谷川>一番多く習ったのは?
<芦州> 桃川燕雄さんが一番多いです。うちの師匠につけて持ったのは修羅場ぐらいなもんでしょう。師匠のやってるのは、ワキで聞いて覚えたぐらいなもんです。相対(さし)でつけてくれたのは燕雄さんです。ほとんど武家物はそうです。「柳生二蓋笠」(やぎゅうにかいがさ)で、親子で、又十郎{註:宗矩の実子で後の柳生宗冬}と但馬守宗矩との試合があるでしょ。その前なんです。つまり又十郎が道楽{註:但馬守の愛妾と密通}して勘当うけて、あそこの出羽国の上戸沢に隠遁している磯端伴蔵のところで修行する。c0121316_18395634.jpgそこを燕雄さんに教わった。そこは誰もやらないんだ。あたしはそこばっか演っていた。磯端伴蔵は何も教えない。しょっちゅう使いばかり、巻き割りだとか。伴蔵が味噌汁をこしらえる、その味噌をわざわざ毎日麓まで買いにやらす。行って帰る距離が長いでんすよ、それは足を鍛えるために毎日毎日行かせる。ある時又十郎がなんでくだらねえ。買い置きしてればいいのに毎日行かせんだ。それで早く楽をしようと、いつもの道と違って、藤蔓を伝わってパーンと、ターザンじゃないけど行って、そうすると行きは早く着く、帰りはそのまんま、時間が違う、伴蔵がお前ねいつもと違うがどうしたんだ?これこれこうです。それが一つの工夫である。これは極意の猿尾の術というんだ。一番初めにエテ公の術を覚えさせられたわけだけどね<笑い>。次は油断をしてはいけない事を教わる。疲れてるから夜中に寝てると、ポカッとやられる。なかなか寝られない。で、だんだん油断がなくなってきた。ただ、メシを炊いてるときに居眠りをするんです、又十郎が。そうすっと後ろから磯端伴蔵がそーと来て、ポカッとやる。たとえメシを炊いているときでもいつなんどき敵に襲われるかもしれない。こんどはメシを炊いてるときは、油断しないでパッとかわす。 ところがメシが炊けて、メシを喰う時、お腹が空いてるから隙が出来て、ポカッと不意打ちを食らう。メシを食う時でもいつ敵が来るかもしれないって。メシをよそうんでも、食うんでも回りを見てエイヤーとやる、そこんとこがおかしいんだよ。それを桃川燕雄さんに教わりました。うちの師匠が聞いてて、なんだお前燕雄に教わったのかって。たいがいのは、そんなとこは無くて、いきなり三年の修行の功により新陰流の極意を許されてですましちゃう、江戸へ乗り込んでいって大久保彦左衛門のところを訪ねる。それから、但馬守と試合です{註:二蓋の菅笠のみで勝つ}。だけどもあたしのは、試合までいかないんですよ。修行のところでおしまい。その後教わろうとしたら燕雄さん死んじゃったから。
(余滴)
桃川燕雄
本名河久保金太郎
明治二十一年1888~昭和三十九年1964 (享年76)
東京四谷生まれ
明治三十六年、当時名人といわれた桃川実(二代目燕林)の門下で燕雄。その後
実死後、二代目桃川如燕の門へ、如燕死後、桃川若燕の身内で戦前まで高座で活躍。戦後は、谷中でこじき同様の生活に甘んじていた。再起を願う、知友、講談組合の助力で昭和二十八年十一月より、帰り咲き。昭和三十一年真打昇進
「寛政力士伝」「佐倉義民伝」「慶安太平記」「両越評定」
燕雄が主人公の安藤鶴夫著「巷談本牧亭」は直木賞受賞。前進座、新派で劇化された。
by koganei-rosyu | 2007-11-17 10:18 | 聞書き:芸人エピソード編

101.桃川燕雄の事(2)

<長谷川>桃川燕雄さんには、いろいろネタをもらったそうですが・・・
<芦州> うちが近かった。私んとこの隣の町会で、通りをひとつへだてたとこです。あすこに、蓆(むしろ)が下がってる。戸のかわりに蓆を開けて、うちの中に下駄をはいて上がるんですよ。畳も腐っちゃって根太も腐っている。だもんだから迂闊にするとバリッと落こっちゃう。雨が降ると押入れだけは漏らないから、押入れにいるんです。雨が漏るんじゃない雨が降るんです。何度も台風で天井が持ってかれちゃってる。大家さんは出って貰いたいから直さない、c0121316_18585118.jpgそれを前進座{註:昭和三十八年「巷談本牧亭」を劇化。燕雄には、中村翫右衛門が扮し名演技と賞賛された}が直しちゃったから大家から苦情がきた。前進座に言わせりゃ人間の住まいじゃないてんだよ。これは、事実ですよ。谷中の名物でしたよ。そいでね、池之端でいろんなものを拵しらえたりする人夫がいるでしょう。そこへあの人が通って、お昼時間に人夫が弁当を食べて休憩の時に、燕雄さんが一席やるんですよ。私もいっぺんだけお付き合いしたですね。ああいう日銭を稼いでる人たちでも、終わって帽子を回すと、ちゃんと入るもんは入ってるんですよ。そのときは福島実記、あの人はかたい話ばかりですから。それから森多兵衛{註:黒田長政の家来で朝鮮で戦死}とか石見重太郎とか・・・
<長谷川>そうすると先生もいくつか稽古をつけていただいた?
<芦州> やりました。あの人に稽古をつけてもらったのは、「赤尾林蔵」「関東七人男」それから「日本左衛門」東海白浪ね、それに「国定忠治」それから「渋川伴五郎」「柳生十兵衛」五席位かな。
<長谷川>稽古は燕雄さんの家ですか?
<芦州> そうです。楽屋でもつけてもらいましたけどね。佃島の住吉亭の楽屋でもつけてもらいました。それでわかんないのは、あの人の家にいって、でも二人じゃ無理(せまい)んで家に来てもらってやりました。ところがねあの人夢中になってくると[声が大きくなる]、こっちは黙って、つけてもらってるでしょう。近所の人が騒いでる。「なんだか汚いおじさんが来て、おたくの息子が怒られている。」やだったよ<笑い>。だからねえ、赤尾林蔵にしたって侠客ですから、「ヤイ!手前みたいな恩知らず・・・」講談なんですよ。ところが聞いている近所の人がひょっと見ると、この人は俺に怒っていると、そのとき困りましたよ。だからお袋がすいませんけどもう少し静かに、ところが、そのうち熱を帯びてくるとなっちゃう。
by koganei-rosyu | 2007-11-14 11:54 | 聞書き:芸人エピソード編

100.桃川燕雄の事(1)

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(桃川燕雄写真は金子桂三氏 「昭和高座の名人たち」より)
<長谷川>本牧亭の話が出てきてところで、先生と桃川燕雄さんの関係について、伺いたいのですが・・・
<芦州> 燕雄さんは戦前確か三河島にいたんだよね。それで向こうで焼け出されて、こっちへ。あの谷中初音町の川崎福松んとこへ。川崎福松というのはだいたいがね、アノ、講釈が好きで、まァ「巷談本牧亭」{註:安藤鶴夫著 昭和38年刊} じゃないけども。その本の中で、伯山さんの車引きってことになってる。あれ、伯山さんじゃないんだよ。あのね、伯山さんには、定(さだ)さんという、有名な彫物(ほりもの・刺青)のある人がいて、それが三代目の伯山さんの車引きだった。それで、その当時、定さんはりっぱな車引きだけど、福松は、なんってのかな、今でいう白タクみてえなもんだよ、人力車でも、それを引いてたんだ。それでね、一つの自慢が、鳳(おおとり)っていう関取りが昔いたの。相撲取りで横綱になったんだか、知らんけどもね。{註:鳳谷五郎 二十四代横綱}鳳という相撲取りのお抱(かか)えで、それを乗せて走ったんだ。だからそれが一つの自慢だったらしい。そいで、福松が釈場にちょくちょく行ってて、燕雄さんなんか演っていたんで、ね、顔を知ってた。そいで、ちょうど焼け出された時に出会ったんだって。「で、先生どうしたんだい?」たら、こうだからって、「じゃ、ちょっと、まァ、うちにおいでよ」って。まァ、行ったのがきっかけで居ついちゃった。行くところがねえんだから。それでふたりで谷中の初音町の、その家へね。で、ボクがいた当時の初音町の{註:芦州師は昭和三年から昭和十年まで初音町に住んでいた}家のちょうど裏側になるんだ、あすこは。そこはね、昔、「バカヨシ」と言ってね、納豆屋の「バカヨシ」ってた奴がいたの。「バカヨシ」の後へね、入ったのが燕雄さんや川崎福松。「バカヨシ」ってのはしょうがねえんだよ。ね、お袋でも妹でも、色気づいちゃたら、関係ねえんだ。追っかけまわすんだから。どうしようもねえんだ、「バカヨシ」は<笑い>。
<芦州> 知ってのとおりあの先生は中座読みが長かった{註:明治三十六年桃川実に入門。昭和三十一年真打披露}。初めてアタシが会ったのは{註:昭和十六年頃}、芝の七福亭かな。七福亭という講釈場があった。昼間は講釈場で夜は色物。その七福亭で初めて燕雄さんと出会った。すごい先生がいるもんだと思った。当時は前座は前座で生涯前座の奴がいる。真打になれねえでいる。だからなまじ若い時に真打になるといじわるされる。でもねそういった人達が、いろんな事を教えてくれますよ。つまり昔の先生はこういう風やりました、ああやりました。でこの桃川燕雄という人がそうでした。それが、アタシの師匠と同期生{註:明治三十六年入門と思える}だった。五代目の伯龍さんと燕雄さんとウチの師匠は同期生で、この三人の先輩が木偶坊伯鱗{註:二代目。初代は実父で初代伯山の惣領弟子で神田伯鱗。末弟子が二代目伯山を襲名したので、「俺を木偶坊にしゃがった」と怒って改名}。ウチの師匠だとか伯龍さんは伯鱗さんに修羅場を教えてもらったことはない。ところが、燕雄さんには手をとって修羅場を教えてくれた。燕雄さんは伯鱗さんから小僧の時に修羅場というのはこういうもんだと教わった。その伯鱗さんに修羅場を今の一龍斎貞水が教わった。{註:貞水師曰く、一席につき神谷バーで電気ブラン二杯という条件で教わったそうだ}
<琴調> 木偶坊伯鱗さんはそうとう長生きされたのですか?{註:明治十六年1883~昭和40年1965享年82}
<芦州> そうだよ。木偶坊が死んだとき、俺と貞水二人で市川の農協組合の二階に行った。三代目伯山さんの惣領弟子で、その弟弟子に、ろ山、伯龍、山陽、伯治とか。この伯鱗さんが自分の講談をあきらめて、番頭さんになっちゃった。{註:戦前は講釈場も多く、顔付けを仕切っていた。戦後は高座に復帰。前座で上がった}
by koganei-rosyu | 2007-11-13 18:33 | 聞書き:芸人エピソード編

99.六代目芦州の預かり名 

<長谷川>今回からしばらく、先輩の先生方のお話を伺いたいと思います。最初は、先生が預かっている名前の話から。
<芦州> ワタシが預かってる名前がありますよ。ワタシの師匠が預かってるから、それを受け継いだワタシが預かってる。だから、今でも「蓁々斎桃葉(シンシンサイ・トウヨウ)と言う名前を、預かっている。これは大看板ですよ。これとね、「放牛舎桃林」(ホウギュウシャ・トウリン)とね、二代名跡ですよ。つまり中国の桃の林の中へね牛を放つね、それと、「蓁々斎桃葉」(シンシンサイ・トウヨウ)と。
c0121316_1434717.jpg<長谷川>もうマジックの芸名(あれ)みたいですね<笑い>。
<琴柳> 「斎」がつくとね、放牛舎桃林ってのもオヤジさん、預かってるの?
<芦州> いや、放牛舎は違う。蓁々斎だけ。蓁々斎はどうしてかって言うと、初代の蓁々斎桃葉さんのお弟子さんが、三代目小金井芦州で葉生(ようじょう)と言ったの。だから関係があるんですよ。そいで葉生からね、神田派に行ったんだ。それで、アノ、桃葉さんが、二代目かな、伜(せがれ)さんが継いで、だから余り上手かねえわけだ。大師匠なんかにも喰われちゃうからどうにもならねえ。下手なんだったそうだ。そいで、オマエは親父の名前を汚したようなもんだよ、なんて言われてね、はっきり言うとさ、貞丈さん(五代目)の伜さんの、今の貞丈さん(六代目)がおかしくなっちゃったのと同じで、まァ、それでね二代目でおかしくなっちゃったんですよ。で、名前を復活させんなら、今度、出来れば、「桃葉」を自分の生きてるうちに、ね、アノ、ウチの師匠も生きてるうちに誰かと思ってたぐらいで。でも、いなかったから。本当は小金井派(わたし)んとこで、ウチの師匠が言うには、ね、まァ、他にもっとしっかりした弟子がいて、ワタシと三人ぐらい居て、そいでいれば、一人は桃葉を継いでいる。だけどもそれが無いままに、思いがはたせなかった。で、今度、ワタシも講談の若手のね、いい人があったらね、桃葉という名前を継いでもらいたいと、大看板をね。
<長谷川>そーすると、今、先生が預かってるのは、「西尾麟慶」と、
<芦州> そう「桃葉」と二つあります。
(写真は「伯圓忌」森松夫氏撮影)
(余滴)
蓁々斎桃葉(嘉永一年1848~大正五年一月十九日1916)享年68
本名 神尾鉄五郎 日本橋生まれ
最初落語家その後 初代放牛舎桃林(初代宝井馬琴門弟)の門に入り、桃葉と名乗る。世話講談の名手として一家をなした。弟子には、葉生(三代目芦州)がいる。
<得意の演題>
「薮原検校」「四谷怪談」「小町娘思呉竹」
by koganei-rosyu | 2007-11-11 23:36 | 聞書き:芦州・麟慶系譜編

98.講談バス

c0121316_2058195.jpg<長谷川>それで、その当時、アノ、昭和三十年頃から、「講談バス」と名づけて、はとバスで回ってたみたいですが、先生ははとバスに乗って、今、若手が遣ってるような、アルバイトはなさいましたか?
<芦州> やりました。昭和ね、エー、もうあれだ。二十七、八年位でやってんじゃないですか。それでね、アノ、講談バスを始める切っ掛けはね、何かの時にね、講釈師はあまりもしゃがんでばかりでいけないからって、先代の貞丈さんかな、それが、バス会社に頼んで、皇居から泉岳寺へと廻った事があるんですよ。これはいい企画じゃないか、たら、向こうで飛び付いて来て、そいでそん時にね、確か本牧亭がレストランをね拵えましたよ、六本木にね。そこで、そのバスを仕立てて、講談師が直(じか)に乗って、お客様を食事の時レストランへ連れていった。それで廻って、最後の真打ちのその前当たり迄に、本牧亭へ運んだんですよ。だから、講談を一席聞いてもらう、それを含めてやりましたよ。読売観光だったかな、確か始めは。その後、はとバスに、乗って廻ったですよ。そいで、それは、大体若手がやる。エー、一番初めはワタシじゃなかったかな、だって若手ったっていないから。
(余滴)
「試みとして三十三年に、はとバスをチャーターして、講談バスをはしらせることにしました。バスの横ッ腹に大きく「本牧亭講談バス」と描いてある、そのバスに三、四人の講談師がガイド役で乗り込み、講談ネタにゆかりの史跡を回るわけです。「怪談めぐり」「白浪めぐり」「名刹めぐり」「捕り物スリラーめぐり」「義士めぐり」といったテーマでやりました。講談師がバスの中で筋書きを話して、関係のある場所に来ると降りて説明する。」(「本牧亭の灯は消えず」 石井英子著 写真も)
一龍斎貞花、伊藤痴遊、桃川操、田辺南鶴、一龍斎貞丈等が乗っていた。この頃は芦州師は寄席を長期無断欠席している。

はとバスによる定期観光のコースの中には、若手講談師のガイド付きの「講談師と行く花のお江戸義士コース」等もあり、現在も続いている。
by koganei-rosyu | 2007-11-02 20:58 | 聞書き:自伝

97.(余滴)幻の神田愛山襲名

c0121316_19115362.jpg昭和26年10月31日付けの時事新報の記事に、神田愛山襲名披露興行の記事がある。それによると、11月6日から8日の3日間本牧亭で、襲名披露。又、11月23日の「落語講談若手研究会」に愛山が無断欠勤の記事もある(「ほんもく」第3号)。昭和27年の講談昼席(1月21日から30日)には、麟慶の名前が載っているので、短期間の改名であったと思われる。
この辺の事情に関しては、小金井芦州師はインタビューでは一切語っていないが、関係者の証言ではこうなる。

吉沢英明氏が芦州師に直接聞いたところによると
「現芦州師のお教えによると、師が一時愛山の名前を名乗ったのは事実なるも、その名で出演したことなき由」(講談昭和編年史・中期より)

神田伯龍(六代目)によれば
「この名前(神田愛山)を山春が預かっていて、今の芦州が麟慶の時に継がせましたが、改名興行で芦州が抜き、私が代演させられました。だから愛山の名前では高座を務めていないはずです。」(神田伯龍 宮岡博英編)

{註:山春について}
本名山田春雄。戦前から戦後にかけて、浅草の興行界に隠然たる力をもつ興行師。神田派の宗家として、神田派の襲名披露等に介入。

c0121316_1913441.jpg又昭和27年3月23日の週間NHKラジオ新聞の記事によると
「西尾麟慶の熱演 麟慶は数少ない若手講談家の一人で貞鳳、伯治とともに若手三羽鳥の一人といわれた。十七才から四代目小金井芦州の門に入り、若州、麟慶を経て、先年愛山を襲名したが、再び麟慶にかえった。他の若手は、新作講談に熱を入れているが、彼は師匠ゆずりの古い読物一点張りでゆこうとしている。「国定忠治」「相馬大作」など大ものを得意とする。この日の演題「肉付きの面」も先代芦州の十八番で・・・・」

この件については、おそらく山春と組んで、言葉は悪いが一種の「襲名ご祝儀詐欺」ではないのかと推測される。後年芦州師は「大島伯鶴」の名跡襲名に動いている。芦州師の読みでは、大島家は襲名するのだから、いくばくの祝い金を出すはずであったが、大島家では、逆に芦州師が礼金を持ってくるものと、両者の思惑がはずれてパアになった事がある。この時も仲間内から祝い金を貰っているそうだ(宝井琴柳談)

現愛山は二代目神田山陽に入門。アルコール依存症を克服して、一陽から二代目神田愛山を襲名している。芦州師の「二代目神田愛山襲名」はまったくの幻に終わった。
by koganei-rosyu | 2007-11-02 12:28 | 聞書き:自伝