2007年 06月 14日 ( 1 )

23.山の手まわり

<長谷川>そうすると昭和十五年頃の講談の定席は・・・
<芦州> エーと八丁堀の「聞楽」に深川高橋の「永花亭」それから・・その前に浅草の「金車亭」があったんですね。金車亭が講釈止めて、浪花節の定席になっちゃた。その時分浪花節が盛んでしたからね。それから早稲田の「ゆたか」がね。夜は色物を昼は講談を。これは端席(はせき)でしょ。はっきりいうといい人は出ないですよ。でもね不思議なもんでね、7月と正月は大看板が出るんですよ。ドンと。
<長谷川>それは下町がヒマだからですね
<芦州> そう、そいで、そういう時だけだね。あとは、たいがい端席廻りを昔「山の手まわり」と言ってたんだ。
<長谷川>「山の手まわり」?
<芦州> そう、つまり、下町はねお客が来るんですよ。ところが山の手の方はなじみがないから、そこへ若手を、若手の真打をやるでしょ。・・・だから要するに端席の真打ということになる。で、あいつは「山の手まわり」だと言うと、つまり一段落ちるわけなんです。で下町でトリをとれば大看板です。聞楽や永花亭とかでね。
<長谷川>入門する前にいろんな寄席にいかれるわけですが、当時いわゆるお目当ての講釈師がいて、今の言葉で「おっかけ」をなさっていたということは?
<芦州> 気に入った人がでれば、行きますが、そこまでは、ありません。
<橘 右龍>当時の情報手段として、チラシとポスターが主だと思うんですが
<芦州> チラシが郵便受けに入ってるんですよ。新聞のチラシの中にも入っていました。
<右龍> B5版位ですか(用紙を見せる)
<芦州> そうね、そのくらい。で電柱にも貼ってありましたよ。配られるのと同じものがあっちにベタベタ、こっちにベタベタネ。貼ってありましたよ。
by koganei-rosyu | 2007-06-14 10:04 | 聞書き:自伝