114.芦州が選ぶ一番の講釈師は誰

114.芦州が選ぶ一番の講釈師は誰_c0121316_197142.jpg<長谷川>そうすると今まで見てきた講釈師で一番は大島伯鶴先生ですか?
<芦州> 伯龍先生ですね。僕はやっぱり伯龍先生{註:五代目}が一番うまいと思う。人によって伯龍さんをキザだなどと言うけどね。六代目貞山、大島伯鶴、伯龍ワタシの耳で聞いてですよ。古い人たちに言わせれば三代目芦州と言うけれどワタシは知らないからね。大正十四年、こっちが生まれる前に死んじゃってるんだからそれはわかりません。うちの師匠に言わせれば「オレの師匠はうまかったよ。でも出来不出来が激しい」とも言ってました。とにかく嫌だなと思うとおっぽちゃうからダメだって。そのかし気が乗っちょうと「鼠小僧」でも五代目柳亭左楽さんだったかな絶賛でしたよ。木更津でもって、お富と与三郎が出会うところ、馬面(うまづら)の芦州といわれてましたが、馬面がこんなにもいい女のお富かと錯覚をおこす。そのかわし自分が嫌だなと思うと前座よりもひどいと言ってました。だから文楽{註:桂文楽}さんだの、志ん生{註:古今亭志ん生}さんだの、円生{註:三遊亭円生}さんだの自分を使ってもらいたくてしょうがない。給金いらねえって。ワタシはこれは人伝いで聞いてます。ワタシの目でワタシの耳でこれが一番というのは伯龍さん。
<長谷川>現存する講釈師では?
<芦州> よしやしょう。これば。今の方は平均してます。我々の先輩でうまいのまずいの差がありすぎる。誰も彼も平均してます。ずば抜けてうまいなあという人もいなければ聞いちゃいられないという悪い人もいないです。

(余滴)
五代目神田伯龍
本名 戸塚岩太郎
明治二十二年六月1889~昭和二十四年五月十七日1949(享年60)
東京生まれ
明治三十五年三代目神田伯山に入門して、伯星。二代目伯梅を経て五山へ改名、
伯山は一時、一立斎文慶の芸風があうと考え、文慶に預けて世話物を学ばせた。
明治四十五年五代目神田伯龍を襲名。脳溢血で急逝。
<得意読物>
「小猿七之助」「天保六花撰」「佃の漁灯(みの吉殺し)」「伊勢の初旅」「緑林五漢録」
「黒田騒動」「め組みの喧嘩」「鋳掛松」
「・・・作家の小島政二郎が推奨しているが(註:「八枚前座」寄席の名人たち)、世話講談に特色を発揮し、右手が不自由(註:小児麻痺)だったが名人錦城斎典山(註:三代目)に比較されるほどになり、晩年には世話物の名人とさえ呼ばれた」田邊孝治
七代目立川談志は、五代目伯龍の「小猿七之助」のレコードを聴き深い感銘を受け、自分の演目にしたと著書「談志百選」等で述べている。

年少の頃、師匠の伯山と横浜公演におもむいたみぎり、兄弟子に当たる『日蓮記』の巧かった柴田南玉と古本屋を漁ってて、たまたま為永の『梅暦』を見つけてから、為永の世界のとりこになった。それがあってか、伯龍は伯山にほとんど教わること無く、近世世話物の名人と呼ばれた一立斎文慶に、話術は元より、幕末風俗に付いて学んだ。文慶はお数寄屋坊主だった。伯龍は廃退期の江戸の世相入心を描写することに入れ込んでいった。江戸後期の浮世絵を見るがごときの「伯龍話術」を完成させたと正岡容は言う。
 「吉原百人斬」」の最初の部分を抜き書きします。見事な描写です。

 享保三年五月四日の午(ひる)下がり、よく真青に雲なく、晴れわたった夏空せ、云うまでもなく陰暦だから、いまなら六月末の日の光がギラギラと眩しく暑い。そこここに鯉幟りが、五色の吹流しが、威勢よくひるがえってカラカラ音立てて、廻っている矢車よ。
「御免下さいまし、あの、御免・・・」浅草中田圃(なかたんぼ)の、妹とふたり侘び住んでいる浪人宝生栄之丞の格子戸の前へ、烈しい日の光を浴びながら案内を乞うている、四十がらみの、スーッと背の高い、垢抜けのした男は、吉原名代の幇間、阿波太夫でございます。「あら、師匠さん」声に、すぐ出て迎えたのは、栄之丞の妹お光で―と、愛想好く伯龍の描きだす十六娘の、ニッコリ色白の顔が微笑む。「あの、兄イさんは」「兄さんですか」「ハイ」「あのゥ」再び妹が微笑んで、「未だ寝てますんで」「・・・・」後無理はござんせんやと云いたげに、意味あり気(げ)な笑いを浮かべて阿波太夫。「花魁からのお託なんですが・・・じゃ・・・あの・・・手前が一つ」「起こして下さい、構いません」三度妹の顔が微笑んだ。また愛想好く。

「あ々風邪とほしがよくていいお住居ですねえ」手拭で首筋の汗を拭き拭き阿波太夫は、
日の光の差し込まない、冷え冷えとした畳へ坐って、満更お世辞でもないらしく、辺りを見廻した。いくら享保の昔でも、人家稠密の廓から来たら、ここら青田に囲まれ栄之丞の住居は、吹く風からしてちがうだろう。「生き返るようですよ、あゝ本当に」誰とも無く呟いた。

久保田万太郎の俳句に
「神田伯龍追悼
梅雨寒しわざと消したる声の艶」がある。
これを評して、小島政二郎は「艶を消した声で、三千歳や鼠小僧の相手の女を描くからこそ、逆の効果を出して滴るような艶麗な雰囲気を醸し出すことが出来たのだと思う。芸の上の逆の効果」と言っている。
by koganei-rosyu | 2007-12-26 12:36 | 聞書き:芸人エピソード編
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