103.大島伯鶴と一龍斎貞山(1)

<長谷川>先生が、この世界に入られた頃(昭和15年)、講談の両横綱は、二代目大島伯鶴(写真次頁)と六代目一龍斎貞山(写真下)と思いますが・・
103.大島伯鶴と一龍斎貞山(1)_c0121316_1271523.jpg103.大島伯鶴と一龍斎貞山(1)_c0121316_1274324.jpg<芦州> その当時、NHKが正月になると元日に伯鶴さんの「愛宕山」{註:寛永三馬術}をやり、暮れの十四日は必ず六代目貞山が義士の討ち入りをやった。当時の寄席の常連は伯鶴先生を馬鹿にしているんですよ。大島伯鶴なんてチャラばかりいれて。ところが子供たちにもわかるような講談なんですよ。芸風からいってオモシロイしね、アタシは伯鶴先生が好きだったですよ。どちらかというと。確かに貞山先生の方はきれいだったですよ。簡潔でね、例えば「秋色桜」をやっても、たいがい「一人はそばやに行きまして、一人は・・・」そんなこと言わないでね、「一人は薬屋へ、一人はそば屋へ」それだけですよ。だから多くの見物が義士の引き上げを見てて、「・・・泣かざるもの一人もなし」の調子で、一言だけで情景が出てました。だからそういう点において一龍斎貞山という人はなるほどなあと思いました。でもねお客を取るという、なんて言いますかね、後ろを引いてお客を取るというところはいかないですね。六代目はきれいです。その場は実に。103.大島伯鶴と一龍斎貞山(1)_c0121316_9362739.jpg「大徳寺の焼香場」{註:太閤一代記の信長葬送の場面}にしても、あの人がやるととにかく長袴をこういうふにして、ともかく上品できれいだけどもお客のケツを引っ張ろうという芸ではない。芸で一番大事なのは品です。品を落としたんじゃ講談はなんにもならない。だけども品の良さ、うまさ、調子の良さ、これはもって生まれたその人本来のあれがありますけどもね。その逆に伯鶴先生は滑稽だらけですよ。だから義太夫は入れちゃう、落語の何かをぶちこんじゃう。なんでもあれェッというものが随分ありますよ。だから色もんなんか行ってて演ちゃうと落語が入っちゃうでんすよ。たとえば浮世床みたいなのが出てくんですよ。あの先生はだから面白かった。そのかわし、あの先生がやるものは必ず前座ものです。「三家三勇士」「元和三勇士」「寛永三馬術」三の字が続く、とか「笹野権三郎」とか、あれはみんな前座もんですよ。ただお相撲さんの「越の海勇蔵」の「寛政力士伝」伯鶴先生のは聞いていないです。エーそれに「高野長英」ね、高野長英だの、「青龍刀権次」だのそういうのはあの先生良かったですよ。まあ「青龍刀権次」などは前座もんじゃないけど。それから、青龍刀権次も出てくる、爆烈お玉の「明治女天一坊」-知らないだろうけど。それに「仁礼半九郎」などが、あの先生独特のものですね。
(余滴)
六代目一龍斎貞山
本名 桝井 長四郎(ますい ちょうしろう)
明治九年十一月1876~昭和二十年三月十日1945(享年69)
東京銀座袋物商の家で生まれた
明治二十年四代目一龍斎貞山に入門貞花を名乗る。師没後、五代目一龍斎貞山門へ移る。邑井操と伊藤痴遊の後見で明治三十年三代目一龍斎貞丈を襲名。明治四十年六代目一龍斎貞山を襲名。昭和二十年三月十日東京大空襲で隅田川で死去。晩年は中風のため専ら口上を勤める。
大正から昭和初期に三代目神田伯山、二代目大島伯鶴とともに、大いに売り出し、確乎たる地位を築いた。演目も多く、中でも「義士伝」はお家芸。東京講談組合頭取、講談落語協会会長を歴任。寄席も神田立花演芸場を経営。

「堂々たる風貌恰幅、流暢華麗で気品のある渋滞をしらぬ音声口調、簡潔な措辞で独特の美文調の名文句を歌いあげるような名調子が、余り講談を聞かない一般人にも歓迎されて、ラジオ放送の出演回数も常に一二を争うほどだった。」田邊孝治氏

鬼助と呼ばれた貞山に関しては、別のエピソードもある
古々今亭志ん生の披露目を上野の精養軒で行ったとき、集まった祝儀400円をそっくり、妻のりんに渡し、精養軒の勘定を全て一龍斎貞山が払った。賭博での資金力(落語家に金を貸していた)だけで落語協会を抑えているのではなく、親分肌の大きな器量もあったようだ。
(「志ん生一代」 結城昌治)
by koganei-rosyu | 2007-11-20 12:27 | 聞書き:芸人エピソード編
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