158.おわりに

約1年に渡る、「小金井芦州啖呵を切る」楽しんで頂けましたか。
最後のインタビューが平成7年4月10日ですから、足掛け13年の歳月が流れました。なんとか公の形で発表できて、ホッとしております。芦州先生の息遣い、意識の流れが少しでも伝える事ができたら、聞き手冥利に尽きると思います。

158.おわりに_c0121316_21251271.jpg最後に芦州先生の芸人としての性格を言い表した立川談志の言葉があるので、ご紹介します。
「飲んだくれでね。上野の地下道の所でスマートボール屋が並らんでやんの、スマートボールやってんだよ、長靴履いて、いい格好じゃないよ。なにやってんの兄さん「ここの女が惚れてんだ」うそだよ。
つまり講釈師の歴史の中にいる人だから、世間と関わりないから、この話はこうこうというのはだめなんだよ。
(中略)
それを分解して、兄さんの芸はこうこうこういうわけですから、今の時代と・・そういう話はできない。せいぜい「よしなよって」感覚が合ってると、おまえがそう言うならよしてもいいがな、という感じなんだ。それを、嫌れぇな奴が言うと、「やかましいやっ」てこうなるんですよ。で、言うとき、あたしが親しいというか、親しいというのも、互いのセンスが判かった上で、ついたり褒たりしている部分が伝わりゃ、いわく以心伝心がある、仲間と決めてくれたからであろう、それとて野暮な事を言ったら、ポンと切れちゃうという所で付き合っている、芸人仲間ですよ。そういうのはいなくなりましたよね。」
{註:立川談志・古典落語CD-Box談志百席第二期の「家元の芸人五十選~小金井芦州代々」より}


高座の写真では森松夫氏にお世話になりました。又講談新聞資料及び講談の歴史的知識には、吉沢英明氏編の「講談昭和編年史」を参考にさせていただきました。吉沢氏は現在膨大な講談辞典を作成中と聞いております。完成を期待しております。
# by koganei-rosyu | 2008-04-17 21:25 | 聞書き:自伝

157.最終回。六代目芦州死去

平成十五年(2003年)6月29日午前10時7分 肺炎のため東京都北区の病院で死去
(享年七十六)
告別式は7月1日

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葬儀は創価学会式で行われた
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本名の虎雄が虎男になっている。
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宝井琴柳と師匠の思い出の写真
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沈痛な面持ちの一龍斎貞花・宝井琴調・神田(日向)ひまわり
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芦州追悼公演で口上を述べる宝井琴調(撮影森松夫氏)
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(葬儀写真 長谷川 憲)
# by koganei-rosyu | 2008-04-16 10:06 | 聞書き:自伝

156.六代目小金井芦州年譜(2)

小金井芦州年譜(2)

1946年(昭和21年)
2月 講談研究会結成 会長長谷川伸(内幸町 生命保険協会講堂) 7回まで行われ、その後寄席演芸の研究発展を目的に「三十日会」発足 会長正岡容  
第三回に前講で「慈愛の母」中江藤樹を読む 
4月二代目大島伯鶴没(67)・6月初代神田ろ山没(56)    
◎勝鬨橋でGIの暴行に師匠を置いて逃走
◎戦後残っていた講談の寄席。人形町 喜せん・4月八丁堀 住吉亭が定席として復興・根津 弥生倶楽部・佃島 住吉演芸館
落語芸術協会へ入る(四代目の引き)前座格 鳴り物も稽古
◎この頃から侠客伝演目として多くなる
◆講談落語協会解散 
◆講談組合発足頭取 五代目伯龍/副頭取 芦州・山陽/幹事長馬琴)     
◎女性問題発覚 師匠懲らしめのため新宿末広亭へ預ける(楽屋泊まり) 
    
1947年(昭和22年)
落語芸術協会脱退(前座待遇に不満)     
◎広沢虎造一座他で地方廻り 
「広沢虎造の影響はないよ・・・ 浪曲は僕ははっきりいって馬鹿にしていたのですから」 「寛永三馬術」「笹野権三郎」が膝がわりのネタ 
    
1948年(昭和23年)
11月本牧亭開業
3月初代神田山陽没(50)
       
1949年(昭和24年)
1月8日 師匠小金井芦州(四代目)没享年61 喉頭癌   
★5月 真打・襲名披露 西尾麟慶(五代目)襲名(披露費用3万円) 浅草 演芸会館(松竹座の前)口上は春日清鶴・木村松太郎・五代目神田伯龍。佃 住吉・浦安亭・松川亭で順次披露 
5月五代目神田伯龍没(59)
◆四代目邑井貞吉講談組合頭取就任 
    
1950年(昭和25年)
3月本牧亭講談定席として正式に運営 
「ジャンバルジャン」「風と共に去りぬ」不評 「人生劇場 残侠編」好評 
宝井馬秀(上野正吉)が五代目小金井芦州を襲名。新宿末広亭口上 邑井貞吉・五代目左楽
     
1951年(昭和26年)
★11月6日から8日間 神田愛山襲名披露(本牧亭)神田派宗家 山田春雄の推挙。しかし、改名興行を抜く。愛山の名前では高座を務めていず、すぐに西尾麟慶へ戻る。「一時愛山を名乗ったのは事実であるが、その名前で出演したことはない」     
◎この頃桃川燕雄から「赤尾林蔵」「関東七人男」を教わる 
   
1952年(昭和27年)
講談バス始まる 
◎この頃から10年アルバイトで糊口をつなぐ、寄席無断欠席続く 
ア)動物園ライオン飼育係り 
イ)中華料理店 
ウ)車両清掃 
エ) アイスクリームを映画館で場内販売 
オ)保険の外交員 
カ)事故係り 
「講談研究会」毎月三十日本牧亭にて開催 
    
1953年(昭和28年)
一龍斎貞花(貞丈)貞鳳・神田伯治(伯龍)・西尾麟慶の若手に努力賞 
「講談学校」発足  
    
1956年(昭和31年)
3月結婚(きく江夫人)大塚角萬にて。仲人?木偶坊(神田)伯鱗 
    
1958年(昭和33年)
9月長期無断欠席続ける(4ヶ月) 
五代目芦州、三代目小金井桜州に改名
    
1959年(昭和34年)
2月講談昼席より復帰 
    
1961年(昭和36年)
6月五代目小金井芦州(三代目小金井桜州)没(84) 
3月から高座休業中「講談ではメシが食えない」 
    
1962年(昭和37年)安藤鶴夫 「巷談本牧亭」読売新聞に連載(38年前進座公演)
3月講談復帰 
    
1963年(昭和38年)
8月「西尾麟慶の会」人生劇場 残侠編 邑井操の語りを中心に麟慶が飛車角の役をつとめる 
1964年(昭和39年)
2月本牧亭で独演会開催下母沢寛原作「雁の群が渡る」 
4月桃川燕雄没(76)
    
1965年(昭和40年)
★11月1日~7日 小金井芦州(六代目)本牧亭で襲名披露。口上 五代目一龍斎貞丈・服部伸
2月四代目邑井貞吉没(86)
◆講談組合頭取 五代目一龍斎貞丈就任 
◆五代目馬琴・五代目神田伯山組合を脱退し東京講談組合設立 

1966年(昭和41年)
12月七代目一龍斎貞山没(59)
    
1967年(昭和42年)
◆2月馬琴・伯山講談協会に復帰 
4月二代目神田松鯉没(82)
    
1968年(昭和43年)
◆8月講談協会設立(会長馬琴) 
6月十二代目田辺南鶴没(72)・7月五代目一龍斎貞丈没

1970年(昭和45年)
「講談道場」開設 プロの養成機関をめざす 
◎この頃渡辺勝吉入門(小金井清州)後の高峰東天(漫才) 
◆講談協会(会長 山陽・理事長 貞鳳就任) 
    
1971年(昭和46年)
本牧亭講談定席の看板をおろす 
一龍斎貞鳳参議院議員に当選
        
1972年(昭和47年)
◎1月宮内政美入門(小金井総州)後の宝井琴柳(六代目馬琴門)
11月新本牧亭落成
    
1973年(昭和48年)
◆5月講談協会(会長神田山陽)天のづるのポルノ講談が原因で分裂 
◆講談組合(会長神田ろ山・小金井芦州・神田伯治・一龍斎貞水) 反対派 
◆日本講談協会(会長神田山陽一門・田辺一鶴一門)支持派 
    
1974年(昭和49年)
◆3月講談組合より宝井馬琴門下の琴鶴・琴梅・琴桜・一龍斎貞丈門下の貞正脱会 
◆東京講談会を設立(会長宝井馬琴一門・一龍斎貞丈一門) 
◆三団体に分裂 
12月服部伸没(94)
 
1976年(昭和51年)
◆芦州講談組合脱退 
    
1980年(昭和55年)
◆8月講談界再合同  
◆講談協会(会長宝井馬琴・副会長神田山陽)
芦州協会復帰・伯龍フリーに 
    
1981年(昭和56年)
11月 宝井鶴州改め宝井琴柳真打披露興行(本牧亭)5日間 
    
1985年(昭和60年)
文化庁芸術祭賞 演芸部門受賞 
10月五代目宝井馬琴没(82)
    
1990年(平成2年)
1月10日本牧亭閉場 
◎最終日白いストッキングを履いた看護婦スタイルで登場 
    
1991年(平成3年)
◆3月 芦州講談協会会長就任 
◆10月山陽一門選挙方法に異議を唱へ脱退
◆二団体に再分裂(現在に至る)  
◆講談協会(宝井・一龍斎・田辺・小金井) 
◆日本講談協会(神田山陽一門) 
    
1995年(平成7年)
櫻井茂夫入門(小金井若州)後廃業 
    
1997年(平成9年)
★文化庁無形文化財認定 
    
2000年(平成12年)
3月脳梗塞の発作   
11月二代目神田山陽没(91)
    
2001年(平成13年)
◆3月講談協会顧問就任・六代目一龍斎貞丈会長就任 
    
2003年(平成15年)
6月29日午前10時7分肺炎のため東京都北区の病院で死去(享年76) 
    
# by koganei-rosyu | 2008-04-13 07:39 | 六代目芦州年譜

155.六代目小金井芦州年譜(1)

小金井芦州年譜(1)
 
1926年(大正15年)
12月21日父岩間勘次母たみの次男として浅草区(現台東区)田原町に生まれる(実際の生年月日は2月19日であったが、生まれつき病弱のため10ヶ月程届けを遅らした)
本名 岩間虎雄(血液型A型)   
父は東京ガスの技師、母は5人目の妻。父は寄席が好きで小唄・端唄を習って粋人であった
   
1928年(昭和3年)
谷中(現台東区)の初音町へ引っ越す
   
1929年(昭和4年)
浅草富士館で見た大河内伝次郎主演の「沓掛の時次郎」(サイレント)が最初の映画。今でも内容を覚えている
   
1931年(昭和6年)
初めて父親と一緒に寄席に行く。席の名前は不明。神田伯山(三代目)「清水の次郎長」二代目
神田松鯉が出演していた。寄席は満杯であった。

1932年(昭和7年)
1月三代目神田伯山没(60)
      
1933年(昭和8年)
谷中尋常高等小学校入学。2年生の時火事で消失
      
1935年(昭和10年)
文京区千駄木へ引っ越す。汐見尋常高等小学校へ
◎小遣いをもらう為「オマ*コ」と外で大声で叫んだ
◎清潔検査の時、ハンカチを忘れたので、カーテンをハサミで切ってきりぬけた。同級生がまねし始めたので、カーテンがあっという間に小さくなった
◎近所の盆栽をひっくり返したり、気に入らない家の前で「ウンコ」をしたりした
◎ベーゴマを賭けでして、近所の子供から小遣いを巻き上げた
◎勉強はまるで駄目。宿題は兄におまかせ。
1月三代目錦城斎典山没(72)
   
1936年(昭和11年)
4月 四代目西尾麟慶が四代目小金井芦州(松村伝次郎)を襲名
   
1938年(昭和13年)
●愛国演芸同盟結成(落語・講談)軍事慰問開始
   
1939年(昭和14年)
下谷商業学校入学   
◎学校には、ほとんどいかず月謝を使い込んで寄席や映画に行った当時木戸銭80銭
◎弁士になりたっかたが、トーキーにより断念
◎落語になるべく七代目三笑亭可楽のもとへ「口調がかたいので講談向き」という事で失格
◎下谷商業学校退学処分
◎父が小金井芦州(四代目)の兄(松村カゲタロウ)の面倒を見ていた関係で四代目へ紹介。本人は神田伯龍(五代目)のところへ弟子入りをしたかった、小金井芦州以外のところへは、許さないという父の意向がつよく、弟子入り
   
1940年(昭和15年)
★5月 四代目小金井芦州(台東区清水町一番地)と初対面「寛永三馬術」から筑紫市兵衛を一時間程やった。芸名靖州(二代目) 内弟子となる
   
○新弟子の稽古
◎朝八時から夕方四時まで、師匠宅の二階のもの干し場で修羅場の稽古にあけくれる
◎猫の兄弟子(タマ)が最大の苦労
◎前の家には大河内子爵がいた
   
1941年(昭和16年)
★初高座「宮本武蔵の狼退治」深川高橋永花亭。前座の給金28銭  
   
1942年(昭和17年)
5月 小金井若州へ改名(二つ目格)初代靖州が「ねずみの殿様」のあだな。嫌いだったので改名してもらう
◎この頃侠客伝にめざめる。二代目神田松鯉から示唆
◎この頃より慰問中心で修業をつむ。全国各地出征家族、軍隊慰問
◎北海道巡業の時熊が出現。師匠を置いて逃走
   
1944年(昭和19年)
芸人のため徴兵を逃れていたが、前倒しの徴兵赤坂東部六部隊から甲府六三部隊へ  
五代目柳亭左楽焼け出されて、師匠宅へ間借りする
●5月芸能挺身隊結成し芸人を各工場へ派遣
      
1945年(昭和20年)
●8月 終戦
3月六代目一龍斎貞山没(69)
   
   
# by koganei-rosyu | 2008-04-12 09:19 | 六代目芦州年譜

154.特別対談 芦州・伯龍二人会(終)

<能條>お二人とも共通点のもう一つは世話講談の名手であった。最後に伺っておきたいんですが、伯龍先生芦州先生、それぞれ世話講談のどういうところが魅力といいますか、ご自分がやってて・・
154.特別対談 芦州・伯龍二人会(終)_c0121316_20143160.jpg<伯龍>そう写実ですね、ようするに会話で運ぶ、会話で全てを表す。説明をなるべくしない事、噺家さんの人情話とは違うんです、「がらがらと戸を開けますてェと、表で雨がサアーっと降って参りまして、やあどうもひどい雨が降ってきたなんてェ・・・」(落語の口調で)講釈師は「がらがら、オウ降ってきたな、しょうがねェなあ、濡れちゃあ」と入る。
<芦州>うちのおやじさんは世話だから、ところがあたしが違うんです。だから気に入らない。この人は世話講談で逆になっちゃった。もっとも考えてみると三代目伯龍のせがれが、うちの師匠{註:四代目小金井芦州}ですから本来は師匠が伯龍になっておかしくないだろけど、神田派を飛び出しちゃった大師匠{註:四代目神田伯龍~三代目芦州}のところで西尾麟慶から小金井芦州{註:第27話神田伯龍と小金井芦州の四代にわたる因縁のドラマ参照}へそんな関係で。
<能條>芦州先生の中ではあまり世話講談は・・・
<芦州>そんな世話講談ではない。
<伯龍>ほとんどこの人の師匠の講談をあたしが演るんですよ<笑い>。
<能條>先代先々代の芦州さんといいますと・・・
<伯龍>三代目の芦州さんズボラだったらしいですね。この人もズボラだけどね<笑い>、とにかく寄席を年中抜くんですよ。この人は今はまじめになってますが、まじめじゃネエ<笑い>。お酒を召し上がりますてえと四日酔い位だな。なにしろ、本牧亭で演るものが「ブリアの恋物語」<笑い>。演ってる本人がわかってねえもんだから「とんかつ大将」なんて、楽屋があきれてけえって、それが覚えていないんですよ、前の日酔っ払ってから、もぐもぐ演ってんですよ。
154.特別対談 芦州・伯龍二人会(終)_c0121316_20145847.jpg<芦州>あたしが洋物が好きでね<笑い>で演ったんですよ。お客がジャンバルジャンを演るのはいいけど、ジャンバルジャンが三度笠かぶってる<大笑い>、言われてネ辞めましたね。それからそのときに前席が「赤尾の林蔵」後席が「ジャンバルジャン」だから鈴本{註:上野鈴本の席亭}のじいさんが怒ってきて、困る、お客が怒ってる、明日から後席は違うものを演ってくれって、翌日「風と共に去りぬ」<笑い>又、怒ってきて、お客は前席はいいけれど後席はいけない、で翌日今度は「カチューシャ」もう断るってんで。しょうがないから四日目に「人生劇場の飛車角と吉良常」したらこれがはまっちゃった。そしたら、じいちゃんが来て、そういうものをやれよと<笑い>{註:第96話本牧亭で定席始まる②参照}
<能條>伺っていると尽きないんですけど、与えられた時間となりました。是非次回の二人会を計画して頂いて、対談の続編をお聞きしたいと思います。
<伯龍>生きていたらね<大笑い>{註:二人会はこれが最後となった}
<能條>今日はこの辺で失礼いたします。
(伯龍写真は「神田伯龍」宮岡博英編より、芦州写真は森松夫撮影)
# by koganei-rosyu | 2008-04-11 11:05 | 聞書き:自伝